第26章:安全性論議の補足とまとめ

 

ここで、この講義の最初に取り扱った安全性の議論を別の見方から考えてみる。

26−1:リスク分析(Risk Analysis)

 安全性を判断する基本はリスクの査定である。その手法として、食品の安全性確保につき国際的に合意されたものがある。まずそれを紹介する。

26-1-1:codex alimentarius 

 国際的な食品基準を決めているのがWHO/FAOの下にあるcodex alimentariusである。WTO (World trade organization)に於いて、貿易における非関税障壁に関する提訴があった場合、この食品基準に準拠しているか否かが判断基準になる。

 食品は、それを生産した国で消費されるだけでなく、輸出されて、その国の収入となる。途上国にとって食品の輸出は国の重要な財源である。日本で消費されるエビ、ウナギ、貝類などの水産物、椎茸、キムチ、コーヒー等は途上国から輸入されている。このような食品の衛生基準を決めるに当たって、輸出国の能力を越えた必要以上の安全性を求めることは、途上国の輸出を不可能にするかも知れない。

 国の財源を保てなければ、その国は存続出来ない。輸出入が国にとって、生命線の一つであることを考えると、食品としての安全性と並んで公正な食品の商取引を阻害しない事が非常に重要となる。このようなことから、codex alimentariusの目的として、食品の安全性と公平な商取引きの確保 "promoting the health of the consumers and ensuring fair practices in the food trade"(Statutes of the codex alimentarius commissionの第1条)と記されている。

 食品は生物由来である。生物が新しい環境に導入されると、従来そこにあった生態系の攪乱が起こり得る。即ち、生物多様性との関わりである。このような状況から、食品の議論と云えども、環境影響を完全には無視出来ない。生物多様性条約の為の"Cartagena protocol on biosafety"(February 2000)、WTO Agreement on the application of sanitary and phytosanitary measures(所謂SPS Agreement)はcodexの議論を進める上で重要な論拠となる。[これに加え、WTOには、主に表示に関係のある Agreement on Technical Barriers to Trade (所謂TBT Agreement)がある。]

 食品の「安全性」要求は、例えば、自国の農業を保護する為に、輸出国に過剰な要求を出し、貿易障壁を作る事にも利用されやすい。従って、食品の「安全性の議論」は、農業保護、自然資源保護、貿易障壁の問題と絡み、各国、消費者、企業、NGOの利害が一致せず、非常に複雑である。

26-2:安全性確保の為の要素

 codex alimentarius に於ける食品安全性確保の基本はRisk Analysisである。Risk Analysisは、Risk Assessment、Risk Management、Risk Communicationからなる。ここで、英文のままにしたのは、和訳した場合に混乱しそうだからである。一応、日本語にすると「リスク分析は、リスク評価、リスク管理、リスク 伝達からなる」となる。

 リスク評価(リスク査定)(Risk Assessment)は、科学に基準を置くもので(1)hazard identification、(2)hazard characterization、(3)exposure assessment、(4)risk characterizationからなる。要は、(1) 危険なものを見つけ、(2)その性質を明らかにし、(3)暴露の評価を行い、(4)上記3項目によるアセスメントに基づき、対象となる集団に対して、既知或いは予測される健康への悪影響の出現或いはその確率を、随伴する不確実性をも考慮し、定性的/定量的に推定するということになる。

 リスク管理(Risk Management)はRisk Assessmentとは独立した(distinctな)行為である。全ての関係者と相談し(in consultation)、Risk assessment及び食品安全性並びに公正な商取引に関係する適切な事項を考慮した上で、政策の値踏み (weighing policy alternatives) をする。又、必要に応じ、適切な予防措置及び管理手段を選択する。

 リスク伝達(Risk Communication)はRisk Analysisの全過程を通じ、hazard、 riskに関係する諸要因、riskの認識等、に関し、risk assessmentの結果、risk managementでの決定の根拠を含め、リスク評価をする人(risk assessor)、リスク管理をする人(risk manager)、消費者、企業、科学者など関係者の間で相互の情報と意見の交換を行うことである。

 ここで、riskとhazardと2つの言葉が出ている。 codexの定義では、
risk: a function of the probability of an adverse health effect and the severity of that effect, consequential to a hazard(s) in food
hazard: a biological, chemical or physical agent in, or condition of, food with the potential to cause an adverse health effect
 となっている。

 簡単に云えば、hazardは、健康被害を起こし得る物か状態であり、riskはhazardによる健康被害の程度と確率に関わるもの(function of the probability)である。

 以上は、非常に論理的な考え方である。しかし、幾つかの問題がある。例えば、リスクの評価(Risk assessment)で、hazardのidentificationが出来なかった場合、どうするかと云う問題である。一方の考えは、見つからないと云う事は、hazardが無い、と云う事ではない。従って、具体的にどのようなリスクがあると分からない場合でも、リスクを想定し対処をすべきとの考えである。別の考えは、hazardが見つからないのであれば、一応危険性はない、と考え対処するとの考えである。

 前の考えの弱点は、「hazardが見つからないのにどうriskを想定するのか」と云う質問に正しく答えることが難しいことにある。後者は、論理的であるが、漠たる不安を前にすると、反発のみ受ける状況になる。

 リスク管理(Risk management)に於けるin consultationとは具体的にどのような事なのか、必ずしも明らかでない。consultationされた側の権限や義務がはっきりしない。消費者団体などの争点になる。

 リスク分析(risk analysis)の考えには、これ以外にも考えていくと疑問が出てくるであろう。しかし、安全性の評価、対処の大筋を決める上で、重要な考え方である事には変わりはない。特に、食品の安全と公正な商取引の2者を対等に考慮している事は、他の安全性議論でも参考にすべき点である。即ち、不当な迄の絶対的安全性(ゼロリスク)を求めず、現実的である点である。

 感染症でもゼロリスクを求めると、エイズや肝炎患者等の完全な差別につながる。かってのハンセン病患者の隔離もこれに無縁ではない。明治の伝染病研究所反対運動、昭和初期の荏原病院移転反対運動など、日本人が如何に感染症のゼロリスクを求めてきたか、と云う歴史のあることは 銘記してよい。 

 最後にこの項で特に注意を喚起したいのは、リスク分析でリスク評価とリスク管理は独立したものでありリスク評価は科学に基盤を置くとしている点である。我国の種々の政府審議会はこの点につき(エイズ事件の際問題にされたにも拘わらず)必ずしも明確な位置づけになっていない。今後の整備が必要と思われる。

26-3:リスクコミュニケーション(リスク伝達)

26-3-1:背景

 現在、リスクをどう市民に伝えたらよいのかと云うことで多くの事業体、政府、国際機関が苦慮している。そのような状況を受けWHO/FAOが専門家会合を開き面白い取りまとめをしたので、以下に紹介する。

 如何なる行為と云えども、危険がゼロなものは無い。このような認識は、必ずしも消費者の中で十分意識されていない。

 危険の認識は、極めて主観的なものである。多くの人は、例え赤信号の中を突っ走るようなことをしていても、自分自身の行動は安全性であると確信している。 それにも拘わらず、或いは、むしろ、それが故に、大多数の人間が、「安全性」を議論する場合、「安全」に「危険が全くないこと」(ゼロリスク)を要求する。

 このような状況から、「安全性」と云うもの、或いは、その評価に至る道筋について、市民一般の共通理解に達することが、新しい技術の導入に際し非常に重要になって来た。

  リスク伝達とは、安全確保の為の全ての過程を通じて、事故の元になりそうなもの(ハザード)、それによる被害の大きさと起こり得る可能性(リスク)、リスクを左右する種々の要因、並びに、人々の受け取り方、等につき情報を流し、意見を交換することである。情報は、リスク査定をする人々、リスク管理をする人々、消費者、事業者、学者、その他の関係者の間で共有されなければならない。安全に関する市民の信頼を涵養し、協力関係を強化し、相互に認め合う状況を作ることが重要である。特に、リスク評価において判明したこと、採択されたリスク管理方法、を確実に伝え、これらの人々の間で議論されることが必要である。情報を流す場合には、

(1) 消費者側にリスクの選択の可能性があるか、
(2) リスク配分、利益配分はそれぞれ公平であるか、
(3) 起こり得るかもしれない被害に対して、個人により特別な恐怖を持つことはないか、
(4) リスクの内容がどの位人々に知られているか、等を考慮しなければならない。

26-3-2:リスク伝達に於いて伝達さるべき内容

1)リスクの性質
 問題としているハザードの性質、重要度、予測される規模や被害程度、状況の切迫度、状況が今後良くなるのか悪くなるのかの見通し等に関する情報、更に、そのハザードに暴露される可能性の程度、誰が、或いは、どの地域が暴露されるのか、目に見える被害が出るのに要する暴露の程度、誰が一番被害を受けそうか、などの情報も大切である。

2) 利益の性質
 リスクを取る事による実際の或いは期待される利益、その時誰がどのように利益を得るのか、リスクと利益のバランスをどの辺に置くのか、利益の大きさとその重要度、市民全体としての利益はどうか、等に関する情報が必要である。

3)リスク評価において出てくる不確実な部分
 リスク評価のやり方、不確実な部分についてそれぞれどれ位重要な意味を持つのか、入手可能なデータについての弱点或いは不正確さやその度合い、査定に際して考慮した前提条件、前提条件が変わった場合どのように評価が変わるのか、その結果として変わり得るリスク管理のやり方、等を明らかにする必要がある。

4) リスク管理の内容
 リスク管理或いは制御の為どう云うことをするのか、各人がリスクを下げる為にどんな事が出来るのか、を提示し、更に、考えられる種々のやり方を効率や利点等の点から比較評価し、何故その手段を採用するのか、と云う根拠を示す必要がある。リスク管理にかかる費用と誰がそれを負担することになるのか、と云う情報は重要である。最後に、そのリスク管理行ってもなお残るリスクについても出来る限り明確にすべきである。

26-3-3:リスク伝達の手法

1) 先ず、情報の受け手を良く知り、個人或いはグループとしてどのような事を問題にしているのか、何を知りたがっているのか、どう感じ取っているのか、を知ることが重要である。又、リスクそのものよりもそれに関連した別の事をより大きな問題と考えている場合があり、それは別問題と片づけず、そのような点についても十分対応する必要がある。リスクの認識に感情的な側面のある事を認め、これに対応しなければならない。

2) リスク情報の発信においては、透明性を確保することが重要である。情報交換のチャンネルを常に開いて置く必要がある。メデイアに対してはその要求に応える必要がある。

3) 学者の協力を得、情報に関する経験を蓄積する必要がある。情報発信に於いては、常に信頼される事が重要で、種々の発信源からの情報が一貫していなければならない。情報発信源として重要なのは、能力的に又専門的に皆に信頼され、公平である事である。消費者にとって重要なのは、実際の事を知っており、専門家で、公衆の事を考え、嘘をつかず、良い経歴の人が対応してくれることである。

4) 情報発信は時宜を得たものでなければならない。さもないと、「どうして早く云って呉れないのか!?」ということになるであろう。情報の受け手から誰かを外したり、ねじ曲げたり、言い訳したりすれば、信頼は失われる。又、「安全だ」と強弁する事態はいよいよ悪化する。

5) リスク情報全般について、責任を一所に押しつけるのではなく、分かちあう事が必要で、政府、業界、報道は、一体となって責任を負うべきである。リスク情報に係わる者は全て、基本となる科学の原則やリスク査定の基盤となる科学的データを理解していなければならない。

6) 科学と価値判断を分けて考える必要がある。先ず、「事実」と「価値」とを別にすることである。何が既に分かっていることか、分からない点はどの辺りにあるのか、を説明しなければならない。

7) 価値判断はどの辺り迄リスクを受け入れられるかによって決まる。多くの人々は、「安全な」と云う言葉を「リスクがゼロである」と受け取ることに注意すべきである。しかし、リスクがゼロとなるような行為はあり得ない。普段は無意識に「十分な程度に安全」と云う意味で使っているのだが、安全性議論になると、ゼロリスクを指すようになってしまう。

8) 市民をパートナーとして受け入れ、市民の心配を否定するのではなく、それを十分分かち合った上での議論をすべきである。即ち、議論する場合、正直であり、率直で、開け広げでなくてはならない。統計データなどを示す場合には、まずどのような調査方法をとり、どのようにやったのかを説明すべきで、数字の説明から始めてはならない。

9) リスクを全体の中で考えるのは必要な事であるが、問題となっている件をより身近なリスクと比較すると、かえって問題を惹き起こすことがある。それは、情報の受け手の側が、情報提供者側が意図的に問題を軽く扱おうとしている、と誤解することがあり得るからである。比較を提示する場合には、比較するものと比較されるもの、それぞれのリスク査定が納得出来るものであること、比較が受け手にとって妥当であること、不確実性において似たようなものであること、受け手の心配が十分考慮され言及されていること、比較するものが、暴露への選択の可能性を含め直接比較できること、等を十分考慮する必要がある。

26-3-4:市民はどんなことを心配するか

  一般に、次のようなものに対して市民はより不安、心配を抱きやすい。

1) 未知で、親しみがなく、希にしか起こらない現象。
2) コントロール出来るのが自分自身でなく、対策を他人に依存せざるを得ない状況。
3) 自然現象ではなく、産業或いは新しい技術に由来するリスク。
4) 科学的に良く分かっていない場合、或いは専門家の間で、その起こる確率や重大さにつき意見が一致していない場合。
5) リスクへの暴露、逆にリスクの代償として得られる利益、の配分に社会の中で不公平がある等、倫理的な問題がある場合。
6) リスクに関する結論に至るプロセスについて、無責任であるとか、隠されていた等と見なされる場合。

26-3-5:市民の心配への対応の仕方

 原則として、
1) リスクは各人が選択出来るようにする事(常に可能とは限らない)。
2) 不確実性を認める。
3) 専門家の意見の不一致は、何もかにも分からないと云うことではない事を示すのが重要である。対極的な考えの中で、どの辺にリスクが来るかと云う点で確実でない、と云うことをはっきりさせる。
4) あり得る事故に対しどのような制御法があるかをはっきりさせ、関係者に熟知させること。
5) 全ての人々に礼儀正しく接すること。
6) 心配事、不平などにつき十分配慮すること。

 

 事故が起こった場合にとるべき事業者の対応として、
1) 消費者の立場に立って対応する。
2) 情報発信源は一つにする。
3) メデイアに対しては、メデイア対応の訓練を受けた者が対応し、常に窓口を開けておく。
4) 情報発信或いはメデイアに対応する者は、会社のことのみを考えず、市民側の事を考慮する。
5) 情報伝達は素早く、頻繁に行う。媒体(TVか、新聞か、等)或いは時間的(取材締め切り等)な制約についてもメデイアに協力する。
6) 従業員に進展状況を知らせる。
7) 消費者の反応を知る手段を講じる。
8) 事業体の社会の中での役割を確認し、それを情報伝達の中に入れていく。
9) 中立的な機関に対して市民、教育機関、保健関係者、政府、メデイアなどに科学的な立場からの情報を提供してもらう。

 

 地域責任者の取るべき対応として、
1) 最新の正確な情報を提供する。
2) 情報は単純にする。ややこしい事は云わない。
3) メデイアとの対応に慣れた者を情報伝達の責任者にする。

26-4:不確実性に関わる考え方の幾つかのポイント

26-4-1:Bayesの法則

 不確実な事象に対処する上で非常に重要な考え方がある。Bayesの法則と云われるもので、「ある事が起こりそうかどうか」と云う判断は、判断する人の持つ情報に依存する、と云う法則である。次のような場合を考えてみよう。

 狂年病(BSE)のテストをするキットがあるとする。このキットが本当は陰性なのに陽性としてしまう割合(偽陽性率false positive rate)が5%であるとする。一方、本当は陽性なのに陰性としてしまう割合(偽陰性率fa1se negative rate)が2%であるとする。大雑把に云えば正しく診断する割合は95-98%なので大変良いキットのように見え、それ以上の情報が無ければ、陽性と出たら、「2-5%の間違いがあるかも知れませんが、先ずBSEですよ」と返事をしてしまうかも知れない。
 処が、BSEの本当の頻度は、周りの情報等から、精々、5,OOO頭に1頭位であると分かっていたとする。すると、この検査で陽性と出た時に、本当に陽性である確率はどうなるであろうか。今集団の数が5,OOO頭とする。

正常の牛の中で陽性と出る確率 0.05
感染牛で陰性と出る確率 0.02
集団の中の感染牛 1頭
集団の中の正常な牛 4,999頭

すると、正常で陽性と出る推定される牛は、
4,999x0.05=250頭
感染していて陽性となる牛は、
1x0.95=1頭
感染しておらずテストも陰性となる牛は、
4,999x0.95=4,749頭
感染していて陰性となる牛は、
1x0.02=0.02頭

となる。つまり、正常で陽性と出る牛(偽陽性)250頭に対し感染していて陽性の牛はたった1頭である。従って、この場合、陽性に出た牛の内1/250が本当に狂半病である、と推定される。つまり、陽性と出たとき「本当にこれは陽性でしょうか」と聞かれたら、「九分九厘陰性ですよ」と答えれば、ほぼ、当たる。何か狐に化かされたような気分で、それ位なら検査をしなきゃいいではないか、と云いたくなるであろう。

 実際起こる事を想像してみると、陽性と出たら怪しいのだから(疑陽性)皆焼いてしまえ、と云う意見も出得る。しかし偽陽性を疑陽性とするのは完全に誤りである。(メデイアでは両者を混同している場合が多い)。
 何れにせよ、頻度が低いものを確実に診断するには、95%位の精度では不十分で、より精度の高い検査法が要求される。BSEの場合、日本では、一次検査としてELISAを行い、陽性と出たら、これをWestern b1ottingと病理検査を行い、確定している。

26-4-2:系統的なバイアス

 「測定値が他人の測定値に近くなる」と云う現象が知られている。1870年から1970年光の速度測定値を見ると1870-1900年では全て正しいとされる値2.997924562x105q/secから50-100q/sec上回り、1900年から1950年では殆ど10km/sec下回っていて、標準偏差のバーも正確な値をクロスしていない。これは、それぞれの時代で同じ様な機器を用いて測定されたこと、計算に使う他の定数に問題があった事によると思われる。しかし、これらの要因による不確実性は測定値と標準偏差に反映されていない。つまり、その時代に問題とならない不確実性は考慮対象とならない。又、各時代で値が比較的一致するのは、科学者が自分の測定値を他の科学者に受け入れて貰う為より保守的になる傾向がある 為かも知れない。
 系統的なバイアスの例として次のようなものがある。1994年にWilliam Nordhausと云う人が面白い調査を行った。質問は「2090年までに地球の温度が3度上がったとした場合の総生産への影響はどうか」と云うもので、地球環境を専門とする経済、政治、環境、工学関係の研究者を対象とした。すると、自然科学を専門とする研究者の場合10%が総生産へ重大な影響を及ぼすとしたのに対し、経済学者は0.4%に過ぎなかった。又、損害の程度についても、自然科学者の推定は経済学者の20-30倍の推定をした。
 以上の現象は、不確実性の源は、対象とする現象だけではなく推定する人そのものにもある、と云うことである。(上の例で、自然科学者の推定と経済学者の推定の長所短所を考えて見よう。)

 不確実な問題に対処するには、「前提は何か、不確実性は何処にあるのか」を明確にする事が非常に重要である。即ち、次の点について吟味する必要がある。

  1. モデルは適切か?
  2. モデル設計は正しいか?
  3. 手持ちデータは正確か?
  4. 用いる前提はよいか?
  5. 推定する専門家をどう評価するか?

 このようなリスク評価について、
D.M.Kammen & D.M. Hallenzahl:Should we Risk It?
Princeton University Press(1999)
を参考にするとよい。考えさせられる例が多く、練習問題も豊富である。
 

26-5: バランスの問題

26-5-1: 種々の行為に伴うリスクは比べられるか

 ゼロリスクの行為は有り得ない。にも関わらず、日常生活を送っていると云う事は、我々は、無意識に、その行為によるリスクとその利益のバランスをとっている事になる。又、これはやろう、これは止めよう、と云う具合に、色々な行為のリスクを、無意識に比較し、判断している。それでは、このような我々の日常の判断は、一定の基準に基づく合理性のあるものなのであろうか。次の表を見てみよう。

表26-5-1:1年以内に以下の原因で死亡するリスク

事象

以下数字分の1

雷に打たれる 10,000,000  
狂牛病に罹る 5,000,000  
列車事故 500,000  
殺人 100,000  
家庭内事故 26,000  
路上事故 8,000  
インフルエンザ 5,000  
中年の自然死 850  
一日タバコを10本吸う 200  

 

 この表を消費者に見せて、「狂牛病なんか雷に打たれる位稀だから心配するな。ビフテキの心配する位なら、タバコ止めたらどうだい」等と云ったら、どんな反応が来るだろうか。「おれは御免だ。ウシはぜったい食わない。タバコを吸うのは俺の勝手だ」と云う返事が来るかも知れない。人がリスクが高いと考える事とこのような統計の数字は必ずしも一致しない。

26-5-2: リスクと利益のバランス

 ゼロリスクの行為はないとすれば、ある行為をする場合、何らかのかたちでリスクとその行為によりもたらされる利益のバランスを考えている筈である。これが、Risk-Benefitの考えである。これは、如何にも合理的のように見える。しかし、これは、リスクに曝される人と利益を得る人が同じであれば問題ない。しかし、世の中の事柄は必ずしも一致しない。


図26-5-2:リスクを伴う事業に利害関係をもつ集団

上の図26-5-2でRはリスクに曝される人、Bは利益を得る人、Aはリスクのある行為を実行する人、のそれぞれの集団を示す。これに関わる人々の中で、次の集団の人はどのような反応を示すであろうか?

Rに属しBにも属する集団
Rに属しBに属さない集団
AとR両方に属するがBには属さない集団
AとB両方に属するがRには属さない集団
等々

 リスクと利益のバランスを取る場合、誰がリスクを負い、誰が利益を得るか、を考えないと社会的な不平等が起こり得る。

 しかし、この考えを突き詰めると自分の利益にならない事は全て反対と云う事にもなり得る。現時点に於ける社会全体の利益、世代を越えた利益、と云った事を考えなければならない。

 現在、上の図式を更に面倒にしているのは、リスクに曝される人々の立場に立つとしながら、政治的、イデオロギー的な立場から、その目的の為に介入して来る集団、Pr、利益者側に立ち強力なロビー活動を行う集団、Pb、の存在である。これらの集団の存在は、リスク評価を行う側、リスク管理を行う側にとって、合理的な判断を誤らせる要因となり得る。しかし、事実上そのような集団が存在し、場合によっては、チェック機構として働く事も認めなければならない。何よりも全体的な構図の中での、透明性を保った、冷静なリスクへの対処が要求される。

 新しい技術の導入については、常に、反対が出る。これは、新しい技術には必ず科学面での、又、社会的影響においての不確実性がある為である。組み換え遺伝子技術はその良い例である。

 反対は正しい事もあるかも知れないが、誤っていることもある。しかし、不確実なのであるから、その時点で反対が正しいのか、賛成が正しいのか、分からない。社会全体の利益を考えるのであれば社会全体として判断をする事になろう。その意味で、リスクと可能性を十分検討し、理解し、決定する必要がある。新しい技術への対応の様な場合に透明性が求められるのはこの為である。

26-5-3: 行政コスト

 全ての行為はリスクを伴う。リスクは出来る限り小さくする必要がある。リスクを小さくするには、それなりの金と労力(コスト)がかかる。リスクをゼロに近づければ近づけるだけコストが高くなる(図26-5-3)。


図26-5-3:リスク管理に於けるコスト−ベネフィットの関係

 多くの場合、国の行政がリスク管理の責を追う。行政に必要なコストは国民の税金で賄われる。従って、リスクを下げる行為は、そのまま国民の支出となる。従って、これも許容出来るリスクとコストの兼ね合いとなる。行政はただでは済まない。
 上の図で注意すべき事は、リスクをゼロに近づければ近づけるだけ、コストが鰻登りに上昇する点である。これは、国民が行政に安全性を要求する時に十分考えなければならない。

 ある事のリスクを下げる場合、次のような事も考える必要がある。一つのリスクを下げると、別のリスクが出てきて、相対的に問題がより重大になる事もあり得る。例えば、農業生産物の中のカビ毒の許容量を0.001mg/kgと科学者が算出し、一方、消費者はもう一つ安全を見積もって0.0001mg/kgにすべきだと主張したとする。カビ毒濃度を下げる為に、抗カビ剤を従来の100倍使用する国が出たとしたらどうであろうか。

 これは、「規制逆説、Regulatory paradox」と云われるものの一つである。詳しい議論は、Cass R. Sunstein: Free Markets and Social Justice (Oxford University Press, 1997)を参照するとよい。この本では、6つのカテゴリーを上げている。

  1. 過剰規制は無規制となる。要するに実際規制出来ない程厳しいので、現実に目をつむり、無かったものとする、状況である。
  2. 新規のリスクに対する厳し過ぎる規制は全体的なリスクを高める。既に、認可したものに規制をかけるのは難しいので、規制は勢い新規製品に対し作られる。すると、新規製品の方がより安全であっても、新規製品への規制が厳しければ、よりリスクの高い古い製品を作る。
  3. 安全確保に関する「得られる限りベストの技術、Best Available Technology (BAT)」の要求は技術革新を妨げる。技術革新には金がかかる。依って、全企業が技術革新に参加しない限り、技術革新は企業にとって利益にならない。
  4. リスク配分を変える規制は社会的に恵まれない人々を虐げる。上のカビ毒のケースでは、カビ毒のリスクを抗カビ剤のリスクに配分し直している。カビが問題となる高温多湿の途上国の生産者は、抗カビ剤の使用を余儀なくされ、経済負担や健康負担が増えるかも知れない。規制は往々にしてそれまでのリスクを他のリスクに転嫁する結果となる。「農家から消費者まで」と云う食品安全に関する考え方は正しいが、どんなタネや苗を使ったか、その保証証はどうか、流通書類が完備しこれを政府が把握しているか、等を要求すると行政負担は巨大になり、途上国生産者は先進国生産者に対し大きなハンデイキャップを負う事になる。
  5. 情報開示は屡々情報不足をもたらす。例えば、「ある食品が確率1万分の1でがんを誘発する」と云う数字が新聞に出た場合、その食品を発売すれば、日本人口1億3千万なので、1万3千人の日本人が、その食品の所為で、がんになる、と読者は思う。実際は、主食を除き、同じものばかり毎日食べる人はいないので、そんなに高頻度でがんが発生する事はない。全ての人に確率計算の詳細を理解させるのは不可能である。
  6. 独立機関は独立でない。行政官庁では、種々の外圧に対する対抗手段が出来ているが、独立機関は、全ての外部の意見を聞き公平に判断する立場にあるので、圧力団体の餌食になりやすい。
     中国には「政策が来れば対策がある」と云う言葉があり、官僚制度に適応して来た長年の智恵であろう。しかし、これは中国に限らない。施策が出れば如何にこれを上手く利用するか、逃れるかを考えるのは人間の本能である。施策を出すに当たっては、必ず起こり得る副作用を予測し、その対策が可能かを見極めた上で決定しなければならない。

 

26-5-4: 技術革新に於けるリスクへの対処

 次のようなケースを考えてみる。

 ある疾病に関係する遺伝子診断である。

  1. 問題の小児がんXは、眼球を犯す。
  2. 研究の結果、がんXを発症する子供には、遺伝子変異Aが見いだされる事が分かった。
  3. この遺伝子変異の浸透率(変異があって発病する率)は95%であり、2−3才で発病する。
  4. この疾病の頻度は1,000人に1人である。
  5. ある会社が、一本の毛根を使えば診断出来る、遺伝子診断のキットを開発した。このキットの偽陽性率は2%、偽陰性率が1%である。
  6. この小児がんの場合、眼球摘出を行うが、転移して一部の患者は死に至る。

 このケースについて、開発から臨床応用に至る迄の過程における問題を考えてみよう。

 先ず、遺伝子を発見する段階である。ここに於いて問題となるのは、遺伝情報の管理の問題である。即ち、

  1. 遺伝情報は個人情報であるのでプライバシーとセキュリテイの問題が出る。
  2. 完全なプライバシー保護のもとでは遺伝情報を患者情報に結びつけることが出来ない。

次に問題になるのは、遺伝子が発見された段階である。即ち、

  1. その遺伝情報は誰の所有物かと云う問題である。患者のものか、この研究に材料を提供した正常人にも所有権があるのか、発見者のものなのか、発見に関わった会社のものなのか?
  2. 遺伝子はパテントの対象になり得るのか?

 キットが開発され、発売申請が出されたとする。

  1. 認可の条件は何か。Bayesの法則を思い起こし、疾病頻度、キットの偽陽性、偽陰性の率などが考慮されなければならない。
  2. もし、陽性なら予防的な眼球摘出をしてよいか、と云う疑問に対してどう反応するか。

 一応、キットが認可され臨床応用に至ったとする。これで問題は終わりであろうか。次のような事を考える必要がある。

  1. 早期の眼球摘出は転移による死亡の率を下げない可能性がある。つまり、遺伝子診断は患者の予後に何ら寄与しないかも知れない。
  2. 遺伝子変異はある人の内5%は発病しないので、手術により眼球を失う必要はなかったと訴訟する人が出て来る。

 前者については、臨床応用後、調査をしなければ何も分からない。しかし、調査せず不必要な眼球摘出を続けた事が、後で何らかの事で判明したとすると大きな問題になる。しかし、調査するとすれば再び患者の遺伝情報と医療情報が必要となる。後者については、何らかの科学的説明が求められるかも知れない。このような事から、市場に出た後もモニターが必要とされる。

 上のケースは1例であるが、全ての新技術の開発・利用に於いて同様な問題が出てくる。既に述べた、リスク評価、リスク管理、リスクコミュニケーションは、開発に伴うリスクについて、どう適用出来るのか、考えてみよう。
 

 

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